「教えてほしいの」
ある着付師さんから、突然そう声をかけられた。
長く着付師をしている方だということは知っていた。けれど、それ以上の親しい関係ではない。だから私は、思わず耳を疑った。経験豊富な着付師さんが、趣味で着物を着ているだけの私に、いったい何を聞きたいのだろう。
五月も、あと数日で終わろうとしていた。
その日は、朝から空気が重かった。最高気温は二十七度。五月に入ってからというもの、夏日は珍しくなく、時には真夏日になる日さえあった。
私はその日、さらりとした質感の化繊の単衣を着ていた。中には夏物の麻の長襦袢を合わせ、壺菫色の半襟をつけていた。表から見えるところは五月らしく、見えないところは少しだけ夏仕様。自分なりの折衷案だった。
本当はもう暑い。けれど、まだ五月である。
あと数日やり過ごせば六月になる。六月になれば、堂々と夏物を着ることができる。そう思っていた。
絽や紗の着物には透け感がある。見た目にも涼やかで美しい反面、私の中ではどうしても盛夏のものという印象が強かった。五月に着るには少し早いのではないか。そう思う気持ちが、長い間、私の中にあった。
それはおそらく、祖母や母の影響でもある。
祖母は着物の暦に厳しい人だった。母もまた、茶道や華道の先生をしていたこともあり、季節のきまりごとにはとても丁寧だった。袷、単衣、薄物。季節ごとにふさわしい装いがあり、それを守ることが美しさであり、礼儀であり、たしなみである。私はそう教わってきた。
だから、着物を着るときには、いつも心のどこかに暦があった。
今日の気温よりも、まず暦。
身体が暑いと言っていても、目の前の季節がすでに夏めいていても、「まだ五月だから」と自分に言い聞かせる。
けれど、この数年、私は少しずつその暦に逆らいはじめていた。
逆らう、といっても乱暴なことではない。季節を無視したいわけでも、昔からの美意識を軽んじたいわけでもない。ただ、あまりにも暑くなった現代の気候の中で、昔と同じ基準だけで装いを決めることに、どうしても無理を感じるようになったのだ。
昔の五月と、今の五月は違う。
昔の六月と、今の六月も違う。
もちろん、着物の暦には美しい理由がある。季節を先取りし、自然の移ろいを身にまとい、目に見えない時の流れを装いで表す。それは日本の文化の、とても繊細で豊かな感性だと思う。
けれど、暦は本来、人を苦しめるためにあるものではないはずだ。
帯を締める着物は、洋服よりも身体に熱がこもる。たとえ夏着物であっても、盛夏の暑さはやはり厳しい。涼しげに見える絽や紗も、着ている本人にとっては汗との戦いになることがある。まして近年の暑さは、風情だけで片づけられるものではなくなっている。
それでも多くの人が、なかなか昔の基準から自由になれない。
「まだ早いのではないか」
「着物に詳しい人から見たら、変に思われるのではないか」
「きまりを知らない人だと思われたくない」
そういう気持ちは、私にもよくわかる。長く受け継がれてきた慣習には、目に見えない重みがある。特に着物の世界では、知識や作法を大切にする人ほど、簡単には変えられない。守ってきたものがあるからこそ、変えることにためらいが生まれる。
人は、慣れ親しんだものから離れるとき、不安になる。
たとえそれが自分を少し窮屈にしているものだとしても、長く信じてきた基準を手放すには勇気がいる。
けれど、伝統とは、ただ昔の形をそのまま閉じ込めておくことではないのかもしれない。
本当に大切なのは、着物を着る人が増えることではないだろうか。美しいと思う人が、着てみたいと思うこと。苦しい思いをせず、自分らしく楽しめること。その先に、日本の文化としての着物が、これからも自然に受け継がれていくのではないだろうか。
着付師さんは、少し声をひそめるようにして私に尋ねた。
「夏着物は、いつから着るの?」
その問いの中には、単なる知識の確認以上のものがあったように思う。彼女自身もまた、かつてのきまりごとどおりに着物を選ぶことに、どこか疑問を感じているのだろう。長く着物に関わってきた人だからこそ、昔の美しさも知っている。その一方で、今の暑さの中で着物を着る難しさも、身にしみてわかっている。
私は少し考えてから、こう答えた。
「私は、気温を基準に考えます。もう十分暑い日が続いていますから、次は夏着物を着ようと思っています」
口にしてみると、それは思ったよりも自然な答えだった。
祖母や母が大切にしてきたものを否定するつもりはない。むしろ、その美意識を受け取ってきたからこそ、私は今も着物を好きでいる。季節を感じること、色を選ぶこと、半襟一枚に心を配ること。その楽しさを教えてくれたのは、まぎれもなく祖母や母だった。
だからこそ私は、今の時代に合った形で着物を楽しみたい。
暦に従う日があっていい。
気温に従う日があってもいい。
格式を重んじる場では慎重に選び、日常で楽しむ場では身体の声を聞く。
それは伝統を壊すことではなく、伝統を生かし直すことなのだと思う。
五月の終わりの蒸し暑い風の中で、私はふと肩の力が抜けるのを感じた。着物を着るということは、誰かに採点されるためではなく、季節と自分の身体と心を調和させることなのかもしれない。
昔の暦を敬いながら、今の気候に合わせて少しだけゆるめていく。
その小さな自由が、これからの着物をもっとやさしく、もっと長く、私たちの暮らしのそばに置いてくれる気がしている。
暦は、私たちを縛るためではなく、季節のなかで心地よく生きるためにあるのだから。